日経です。
大学入試の見直しを軸に高校と大学の接続を改革する議論が進んでいる。荒井克弘・大学入試センター名誉教授は新しい学力観への転換を目指す改革は学力格差を拡大しかねないと懸念する。
文部科学省の高大接続システム改革会議が中央教育審議会答申の具体化に取り組んでいる。会議は昨年末まで2年半にわたり審議を続けてきた中教審高大接続特別部会の受け皿として設置され、8月末に中間まとめを公表する予定だ。
5回目にあたる8月5日の審議で「中間まとめ(案)」が配布された。目新しい点はあまりないが、新テストの本格始動が高大接続改革実行プラン(今年1月策定)で決めた時期よりも4年ほど繰り延べになりそうだ。「高等学校基礎学力テスト(仮称)」が2023年度、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」が24年度からとなる。次期学習指導要領に改訂されるタイミングを考慮しての変更で、それまではいわば助走期間となる。
「中間まとめ(案)」は中教審答申に比べて留保付きの文章がだいぶ増えた。具体化の検討が難航しているせいだろう。その慎重な書きぶりのおかげで“入試改革”へ前のめりになっていた審議の姿勢が多少矯正された感もある。高校教育・大学教育・大学入学者選抜の一体的改革という政策主題に改めて立ち返ってみると、今回の改革の柱は「学力像の転換」「学力の再定義」にあることがはっきりしてくる。
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新しい学力像への転換という大事業を前にしては、「入試改革」といえども単なる一つの道具立てにすぎなかった。その筈(はず)であったのに、実は大変難物に手を触れてしまったことに、関係者は後で気付いたかもしれない。教科科目型の学力像を後景に退かせ、時代の求める「資質・能力(コンピテンシー)」を前面に押し出すのが、関係者の意図であったろう。ところが、その「資質・能力」は相変わらず抽象的なままで、教育現場で通用するものにはなっていない。
新テストと資質・能力論との対応づけは、基礎学力テストが「知識・技能」を、学力評価テストは知識・技能を基盤としながら「思考力・判断力・表現力」を中心に、そして大学の個別選抜は「主体性・多様性・協働性」を多面的、総合的に評価する構成である。
現行の大学入試センター試験は教科科目がベースで、その中に、知識・技能も思考力・判断力・表現力も埋め込まれている。「大学入学志願者の高等学校段階における基礎的な学習の達成度を判定する」というセンター試験の目的に比べ、学力評価テストの目的は抽象度も難度もワンランク上をめざしている。
中教審答申は(1)選抜性の高い大学が十分活用できる高難度の問題を含む(2)教科・科目の枠を超えた合教科科目型、総合型の問題を教科型に加えて出題し(3)将来は合教科科目型、総合型のみとする――と述べ、教科科目学力から資質・能力への移行をほぼ断言している。
学力の高い、早熟な生徒は抽象的な教育目標や試験の形式の変更にもあまり惑わされず、柔軟に対応していけるだろう。だが、ボリュームゾーンである学力中下位層はそれほど器用ではない。彼らの学習時間はなお減少傾向にあり、授業理解も「わかる」と答える生徒はせいぜい4割にとどまる。このまま改革が進めば、中下位層の混乱と動揺は避けがたく、学力の二極分化もさらに進むことになろう。目標を高めに設定すれば、教育の質が上がると考えるのは楽観的にすぎる。
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新テストに記述式を出題するという提案も新しい学力像へのこだわりである。コンピューターがすぐにでも長文の記述解答を自動採点できるのであれば別だが、実際には字数のごく限られた短文さえも公平に採点することは難しい。それだけでも膨大な労力、時間、経費がかかる。結局、穴埋め式と大差ない記述式しか出題できないのであれば、何のための記述式出題なのか。記述式はやはり個別選抜で出題するのが適切であろう。
これまでも共通試験と個別試験の組み合わせで入学者選抜の多様性を担保してきた。共通試験に学力試験の全てを詰め込むというのはもともと無理な話である。共通試験の肥大化は再び序列化、輪切りを呼び出しかねない。入学者選抜の主体はあくまで個々の大学であり、共通試験はそれを補完するにすぎない。
新しい学力像を追求する過程で、コンピューター・テストの可能性が注目を浴びている。また複数回の試験の比較には新しいテスト理論(項目反応理論)の導入が必要なことも、徐々にだが周知されてきた。しかしこれらの新技術がわが国の土壌になじむかどうかは未知数である。実用までのプロセスには時間もかかり課題も多い。
項目反応理論を万能ツールのように理解する向きもあるが、この理論を適用するための条件は厳しく、用途は限られる。出題は短問式で、問題の局所独立性が担保でき、実施前に全てのテスト統計量を把握できていなければならない。膨大な労力と時間、経費がかかる割に、教育的メリットは乏しいとの指摘もある。
しかもこの理論によるテストでは試験問題が公開されない。そもそも入試問題が公開されないという状況をわが国の教育社会は経験したことがない。テスト理論を装備した大規模試験は巨大な「ブラックボックス」に等しい。
受験から成績が通知されるまで、受験者の手元には試験問題もなく、自己採点もできない。初出問題、大問形式、公開制、公平性にこだわってきた日本の試験風土とのギャップをどのように埋めてくのか、取り組みは緒に就いたばかりである。
ごもっともです。現場のレベル、指導者のレベルが問われます。
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